人、街、酒

第5回

フォークデュオとして息の長い活動を続ける「紙ふうせん」のお二人。「赤い鳥」時代を後藤さんが振り返ります。

プロとしてスタート

 「赤い鳥」として活動したのは、1970年〜74年の4年間です。
 東京・三田に本拠地を起き、番組のレギュラーを持ちながら地方ツアーを回るという毎日でした。バックバンド、照明、音響を入れて、15名ほどのツアーです。10日ツアーしたら1日休みがありましたが、時間に追われ続けていましたね。何しろ、年間170〜190公演をこなしていましたから。車や列車で、2〜3時間移動し、次の町へ行くんです。だから、コンサートを終えて宿に着いて、食事をしたら、泰代さんを部屋に置いて遊びに行っていましたよ。地方に行くと照明、音響のスタッフが飲みに行くので、一緒についていくんです。そこで聞かせてもらう話が、勉強になりました。

舞台をつくりたい

 照明家からは、「舞台用の曲をつくれよ」と言われ続けました。もともと舞台芸術を創ってきた人が照明を担ってくれていましたので、舞台人として徹底しているんです。例えば、会場が埃っぽい体育館だったりすると、まずフロアに水を撒かせるほどでした。
 そんな人から、「舞台用の曲を」と言われたのです。レコーディングは、録音次第でどうにでも作れます。アレンジとミキシングで、ニューヨーク風の曲に変えてしまうこともできる。しかし、ステージは、その場のものです。

オリジナルを求める

 4年間に10枚のアルバムを出し、順調と言える毎日でしたが、売れているという実感が全くないんです。ライブコンサートに来てくれて、レコードも買ってくれる人たちに応えるための曲を作りたくても、時間がありません。
 「こんなに忙しすぎるのはだめ。作曲もできない。何も浮かんでこない」
「だんだん下手になっていく気がする」と苦しむようになっていました。割り切ってしまえば楽なんでしょうが、人に与えられた曲でやっていくのでは、音楽を深めることができないと思いました。
 フォークソングを追求したい僕たち、ポップスに乗っていく他のメンバーたち、それぞれの方向性の違いから、3年目で解散の話が出ました。いったんは事務所から引き留められましたが、「作ったのは僕だから潰すのも僕だ」と、解散を決めました。ラストコンサートは、大阪のサンケイホールで。
 1974年8月末に「赤い鳥」を解散しました。

つづく


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